つい先日のTV番組で特集されていた中国障害者芸術団が演ずる「千手観音」。聴覚障害があるという10代の少年少女達21名の、それこそ「一糸乱れぬ」究極の団体演技。見た人は皆、驚愕のあまり「鳥肌」が立ち、そして涙したはずだ(↓)。
http://shopping.jchere.com/detail-id-863.htm
http://www.sankei.co.jp/enak/2006/oct/kiji/11lifesenjyukannon.html
あまりの感動があり書きたいことはたくさんありすぎるのだが、このブログのテーマが「テコンドー」ということもあるので「テコンドー」に絡めた話をしてみたい。
この「千手観音」の演技をみたテコンダーの何人かはきっと、私がそうだったように我々が時に競技する「団体トゥル」を連想したであろう。テコンドーは言わずもがな「武道」であり、中国障害者芸術団が演ずる「千手観音」の「芸術」とはジャンルが違うで訳で、同じ土俵で比較するのはナンセンスであるように思う。
しかしながら、有り得ない話であるにしても、もし彼らがテコンドーを習い団体トゥルを演じたなら・・・という突飛な想像を膨らませて、その映像をイメージしてみたなら・・・空恐ろしいもを感じつつもわくわくせざるを得ない。
ジャンルは違えど、団体演技(競技)という共通点において「まだまだずっと先の到達点があるのかもしれない」という可能性を示唆するには彼らの演技は充分すぎるほどの説得力があった。さらには・・・
「しかし全く関係ないとも言えないようだ」
と思える場面が、この「千手観音」を特集した番組で流れた「練習風景」にあった。耳の聞こえない彼ら21人の動作が時に一糸乱れずピタリと一致し、時に動きをずらすことによって作り出される流れるような連続動作を可能にするための工夫。それが・・・
「呼吸をあわせる」
という工夫であった。練習風景にはまるでテコンドーの「シュッ!」というあの独特な呼吸音に近い音が特徴的に聞こえていた。その呼吸でタイミングを合わせ、時にその呼吸を相手に吹きかけリズムを取っていた。
「少なくとも彼らの呼吸は動作中一致している」
という意味で、彼らの演技もまた「武道性」を帯びているようにも思う。
いつもながら感じることだが、世界にはまだまだ凄い奴等が大勢いるのだ。それを実感できるこの瞬間がなによりも嬉しいし、楽しい。
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http://www.sankei.co.jp/enak/2006/oct/kiji/11lifesenjyukannon.html
あまりの感動があり書きたいことはたくさんありすぎるのだが、このブログのテーマが「テコンドー」ということもあるので「テコンドー」に絡めた話をしてみたい。
この「千手観音」の演技をみたテコンダーの何人かはきっと、私がそうだったように我々が時に競技する「団体トゥル」を連想したであろう。テコンドーは言わずもがな「武道」であり、中国障害者芸術団が演ずる「千手観音」の「芸術」とはジャンルが違うで訳で、同じ土俵で比較するのはナンセンスであるように思う。
しかしながら、有り得ない話であるにしても、もし彼らがテコンドーを習い団体トゥルを演じたなら・・・という突飛な想像を膨らませて、その映像をイメージしてみたなら・・・空恐ろしいもを感じつつもわくわくせざるを得ない。
ジャンルは違えど、団体演技(競技)という共通点において「まだまだずっと先の到達点があるのかもしれない」という可能性を示唆するには彼らの演技は充分すぎるほどの説得力があった。さらには・・・
「しかし全く関係ないとも言えないようだ」
と思える場面が、この「千手観音」を特集した番組で流れた「練習風景」にあった。耳の聞こえない彼ら21人の動作が時に一糸乱れずピタリと一致し、時に動きをずらすことによって作り出される流れるような連続動作を可能にするための工夫。それが・・・
「呼吸をあわせる」
という工夫であった。練習風景にはまるでテコンドーの「シュッ!」というあの独特な呼吸音に近い音が特徴的に聞こえていた。その呼吸でタイミングを合わせ、時にその呼吸を相手に吹きかけリズムを取っていた。
「少なくとも彼らの呼吸は動作中一致している」
という意味で、彼らの演技もまた「武道性」を帯びているようにも思う。
いつもながら感じることだが、世界にはまだまだ凄い奴等が大勢いるのだ。それを実感できるこの瞬間がなによりも嬉しいし、楽しい。
2006/10/19(木) | 普通の日記 | トラックバック(0) | コメント(0)

